トレイルランニングのウェブメディア、DogsorCaravanを運営している岩佐幸一と申します。2024年11月に中国・浙江省臨海(リンハイ)市を訪れ、中国最大規模にして最も人気のあるトレイルランニングイベントといわれている「Tsaigu Trail」(柴古唐斯括苍越野賽)を取材しました。取材を通じて私が見た最新の中国トレイルランニング事情を前編と後編の2回にわたって紹介しています。
前編では、この大会の特徴や参加された選手の声に加えて、大会パートナーのサロモンが開催した企画「トレイルランニング・ショー」で日本と中国、韓国のトレイルランニングのカルチャーについて語り合った経験を紹介しました。後編ではハイレベルなレースを目の前で観戦し、その翌日に自ら25kmのレースに参加して感じたことをお伝えします。
趣向を凝らした演出、高いトレイルランニングへの関心、ハイレベルなレース
臨海市の歴史的な街並みが保存、活用されているエリア「台州府城」で選手受付やトークイベントが開催された金曜日は、終日台風による豪雨でした。そして台風が去った翌日の11月2日土曜日に105kmと50kmのレースが行われました。この日は台風一過の快晴となりましたが、前日までの大雨でコース上に危険な箇所があるためコースが一部変更されることに。元のコースに比べてトレイルのセクションが短く、ロードが長くなったことから、スピードが勝負を握るレースとなりました。前夜の大雨にもかかわらず、当日の朝には変更後のコースにしっかりコースマーキングがされており、大会運営スタッフの迅速な仕事ぶりが窺えます。
レースのスタート、フィニッシュとなるのは台州府城の南側の城壁にある興善門広場で、歴史的な建造物である城門を組み込んだ形でスタート・フィニッシュゲートが設営されています。大型のLEDスクリーンがゲート横のステージ上だけでなく、ゲートの前にも四方に向けて箱型に組まれたLEDスクリーンがあり、さらにゲートの表裏両面もLEDスクリーンとなっていて、さまざまな動画やアニメーションがリズミカルに動いています。トレイルランニングの大会でここまで惜しみなくデジタルサイネージを使った演出をしているのは初めて見ました。
―スタートを待つ選手の真ん中からライブパフォーマンスで会場を盛り上げる。
ゲートの前のスタートを待つ選手たちが並んでいるエリアの真ん中には仮設のお立ち台が設けられています。ここから大会MCが選手に囲まれながら大会を盛り上げたり、ミュージシャンがギターを片手にシャウトしたり、ダンサーがドラムを叩きながら踊ったり、とスタートに向けてムードを盛り上げます。
スタートを待つ選手たちの頭上には数えられるだけでも6、7機のドローンカメラが飛んでいて、中には選手の頭上50センチほどを飛び回るものもあります。極め付けはスタートと同時にゲートの左右それぞれ20メートルほどに並べられた専用機材から3メートルの火花が噴き上がりました。世界広しといえどもトレイルランニングイベントでここまでの演出をする大会は他にないでしょう。ただ、むやみにお金をかけた派手な演出をしようというのではなく、冒険の旅に出発しようとする選手を激励し、冒険の主人公として送り出したいという熱意を感じました。
―50kmのレースをリードする上田瑠偉選手。
午前5時に105km、午前6時30分に50kmの選手のスタートを見送った後も驚きは続きます。この大会ではレースの上位を走る選手の様子をカメラが追うライブ配信が行われました。このライブ配信も、二つのレースの男女の上位選手がコース上で走る様子を、ほぼ切れ目なく高画質の生中継でカバーするという臨場感にあふれた優れた内容でした。驚かされたのは、WeChatの大会公式アカウントで配信されたこのライブ配信の同時視聴者数が、私が見ていただけでも最大で14万人近くに達していたことです。私はYouTubeで世界各地のトレイルランニング大会のライブ配信を見ていますが、世界的な人気大会であっても同時視聴者数は1万人を超えればかなり多い方です。中国が世界最大の人口を抱えることを考慮したとしても、トレイルランニングやTsaiguという大会が広く中国社会で注目を集めていることがわかります。
レースの結果は、50km男子で日本から参加した上田瑠偉選手が優勝しました。中国でよく知られたトップ選手に最後まで追われながらもリードを守り切った鮮やかな優勝は現地のメディアでも話題になりました。レースを終えた上田選手は握手や記念の写真撮影を求める人に囲まれる人気ぶりでした。50kmの女子ではサロモンアスリートの姚妙(ヤオ・ミャオ)選手が優勝。UTMBのCCCやOCCで優勝しているヤオ選手は、Tsaiguでは今回が4度目の優勝です。105kmのレースには日本のサロモンアスリート、板垣渚選手が参加し、男子29位でフィニッシュしました。
―中国のトップ選手を相手に、上田瑠偉選手が優勝。
―上田選手と50km女子優勝の姚妙(ヤオ・ミャオ)選手。
ちなみに、50km、105kmともに男子の上位4、5名の選手はITRAのパフォーマンスインデックスで900、同様に女子の上位4, 5名は105kmでは720、50kmでは700を超える実力の持ち主です。Tsaiguほど上位入賞する選手のレベルが高い大会は、世界を見渡しても片手で数えられるほどしかないでしょう。
―板垣渚選手は105kmのレースを完走。
【実際にレースを走ってみた】ハードなコースながら熱烈な応援やおもてなしがうれしい
二つのレースの翌日、日曜日には25kmのレースが行われました。私も中国のトレイルランニングとTsaiguの大会の魅力を体験するため、このレースに参加しました。
スタートとフィニッシュは前日の105km、50kmと同じ、興善門広場。午前9時にスタートすると道路を走ってから、台州府城の北側の山の稜線に沿って設けられている城壁へと階段で登るのですが、たくさんの地元の皆さんが応援していました。選手の通行のために封鎖された道路を渡る際にも、電動スクーターに跨って通過待ちをするたくさんの人たちが「加油!」(ジャーヨウ)と声援を送ってくれたり、箱にいっぱいのみかんを用意した農家のおじさんがランナーにみかんを勧めていたりと、臨海の地元の皆さんにトレイルランニングとTsaiguの大会が受け入れられていることを実感します。
―城壁への階段を登り切って振り返ると、たくさんの応援の人たちが集まっている様子が見えました。
しばらく走るとトレイルに入って行きます。コースではたくさんの大会スタッフ、ボランティアの皆さんが選手の様子を見守っていたのも印象的でした。コースの分岐だけでなく、少し足元が滑りやすいところ、山頂付近の段差の大きい岩場の登り下り、といった具合にランナーとしてちょっと気をつけた方がいいなと感じる場所では、必ず大会のスタッフさんが声をかけてくれました。
―急な登りが続いて、ここからは下り基調となるがテクニカルなアップダウンを繰り返す。
周りのランナーに目を向けると男性も女性も、サロモンをはじめとするトレイルランニング・ブランドのウェアやバックパック、シューズを身につけています。私は7年前に中国の別のトレイルランニング大会を取材した経験がありますが、その時の写真を見返すと選手の中にはビニール袋のようなポンチョを被っていたり、蛍光カラーのシャツやカーフガードを身につけている人も少なくありませんでした。今回とは場所も天気も違うので客観的に比較できませんが、当時と比べると選手の装備はすっかり洗練されたように感じます。
さて、私のレースは日差しのせいで大汗をかいたせいか、途中からは両脚の攣りですっかりペースダウンしてしまいました。やっとの思いで、最後の600メートルほどは台州府城の歴史的な街並みの間を駆け抜けます。コースの両脇にはびっしりと応援の人たちが並び、その間をすり抜けるようにしてフィニッシュ。UTMBを思い出させる晴れがましい演出ですが、大きな冒険を成し遂げた余韻に浸らせてくれました。
レース後は完走賞のベストなどを受け取った後に補給ができるスペースへと移動するのですが、そこでの食事の充実ぶりにまたびっくり。水やスポーツドリンク、フルーツやクッキーだけでなく、フライドポテトや唐揚げ、さまざまなトッピングを選び放題のお粥、温かい豆乳、春巻きや肉まんといった蒸し料理、お好み焼きのような薄いパンケーキ、といった食事をより取り見取りで選ぶことができます。こうした食事はテントの裏側に設けた仮設のキッチンで調理され、でき立てが提供されています。中国の食文化ではでき立ての温かい状態で提供するのが常識とは聞いていましたが、トレイルランニングの会場で実践するのは大変なことでしょう。思い起こせば、レース中のエイドステーションでも水やコーラと並んで、温かいスープが提供されていました。
―レース後の休憩エリアでは充実した食事が用意されていました。
―食事はテントの裏で調理され、でき立てで提供されます。
【まとめ】少々ハードルは高いけれど、まだ私たちが知らないトレイルランニングの魅力的な世界が中国には広がっている
以上、前編と後編の2回にわたってTsaigu Trailで私が経験した、中国のトレイルランニング事情を紹介しました。コロナ禍の外出制限や2021年5月に甘粛省で多数の選手が亡くなった事故により、中国のトレイルランニングコミュニティ、特に大会主催者には厳しい時期があったはずです。今回も、大会前後のセレモニーでの主催者のスピーチや、大会当日の多数のスタッフを手厚く配置した運営体制からは、選手の安全を最優先としていることがよくわかりました。しかし、逆境を跳ね返すかのように中国のトレイルランニングは勢いよく盛り上がっています。
日本のランナーにとっては中国のトレイルランニングイベントに参加するのはそう簡単ではありません。中国にはたくさんの大会がありますが、大会の情報やトレイルランニングのメディアは微信(WeChat)や小紅書(シャオホンシュー)といった中国独自のソーシャルメディアを中心に発信されています。中国国外からのエントリーも受け付けていますが、大会運営自体はほぼ中国語のみで運営されているのが現状です。中国での滞在については、AlipayやWeChatPayといった中国のバーコード決済が日本のクレジットカードと紐付けて使えるようになって便利になりましたが、地図アプリやライドシェアといったサービスは中国のサービスを中国語で使う必要があります。臨海の街では英語で話しかけてもほとんど通じませんでした。一方で、コロナ禍以降は日本から中国への渡航に際してのビザ免除の停止が続いていたことが日本人の中国旅行の障壁となっていましたが、11月30日からビザ免除が再開されるのは明るい材料です。
一般ランナーもエリート選手も、大会主催者もメディアも、これほどまでのトレイルランニングへの熱意を感じられるのは世界を探しても中国だけです。今回、サロモンが国境を越えたトレイルランニングカルチャーの共有を呼びかけたことに、これから私も日本のトレイルランニングメディアの一つとして応えていきたいと考えています。