
標高3100m。富士山の吉田ルート八合目には、長年登山者を見守り続ける救護所がある。
「富士山八合目富士吉田救護所」。そこに20年近くボランティアで通い続ける岩瀬史明医師に密着。標高3000mを超える高所という特殊な環境による体調不良者が続出する、富士山における医療の最後の砦の重要性を知る。
医師でありランナー
八合目まで駆け上がる
まだ空気がいくぶん涼しい、真夏の早朝6時。
富士山の登山口である中の茶屋の前を2人のランナーが駆け抜けていく。
先頭をいくのは、山梨県立中央病院に勤める岩瀬史明医師。

向かう先は「富士山八合目富士吉田救護所」だ。八合目に位置する山小屋、太子館に併設された救護所で、岩瀬医師をはじめとした地元や県内外の医療従事者たちが、24時間体制で診療や応急処置を無償でおこなっている。3000m付近から高山病の症状を訴える人が多数いたことから、2002年に開設。開山期間中の7月上旬から9月上旬にかけて毎年開設され、年に300〜400人の受診者を受け入れている。
岩瀬医師が救護所ボランティアをはじめてから、すでに18年になる。

サロモンのギアで身を固めている。走ることが趣味なのだ。通常だったら車で五合目まで上がって、その後はクローラー(運搬車)で八合目まで上がるのだが、岩瀬医師は毎年走って上がっている。走れるドクターなのだ。
フルマラソンの自己ベストは2時間20分台という実力。高低差3000mを一気に駆け上がる富士登山競走にも出場していて、過去には年代別1位など輝かしい成績をおさめている。毎年、救護所まで走って上がるのはトレーニングの意味もあるが、富士山の五合目までの道のりがとても好きだからだという。
「良い森なんですよ。五合目から先とはぜんぜん違う風景なので、ぜひ1度歩いてみて欲しい場所です」

高所環境が引き起こす高山病が
体調不良の約半分を占める
9時には八合目まで上がってしまうという岩瀬医師に遅れること数時間。救護所に到着すると、岩瀬医師の姿がない。捻挫をした患者さんを急遽六合目までクローラーで下ろして、再び八合目まで戻ってくるという。

救護所には他のボランティアスタッフの方々もいて、シーズン中は20ほどのチームが2泊3日交代で常駐している。救護所がある太子館前のベンチで待っていると、岩瀬医師が戻ってきた。今日だけですでに相当な移動距離だが「良い高所順応になりました」と、ピンピンしている。


登山者が次々と救護所前を通り過ぎていく。それにしても、いろんな人がいる。いかにも山に慣れていそうな人から、今回が山登り自体はじめてだという人まで。国籍もさまざまで、ここ数年は日本人よりも海外の人のほうが多いという。
一時期は宿泊せずに夜通し歩く弾丸登山が問題になっていたが、昨年から山梨県側では五合目にゲートを設置。16:00〜翌3:00まで通行止めにするなどの規制をおこなっている。
「一気に上がってくると、体が環境に対応できず高山病になるリスクが激増しますから、この規制はかなり効果があると思います。体調不良の統計で言っても4〜5割くらいの方が高山病です。その予防のためにも、休みながらゆっくり登ってくること、そして水分をこまめに補給することを心がけて欲しいです」


普段は山梨県立中央病院の救急救命センターに勤めていて、重篤な救急患者を受け入れている岩瀬医師。とうぜん普段の職場と、3100mという高所に位置する救護所ではだいぶ勝手が違う。
「富士山に登ってくるぐらいなので、基本は健康な人たちです。だから具合が悪くなったら下山を促すのが主な役割だと思っています。ただ、その判断というのはなかなか難しい。自力で歩いて下りられるのか、クローラーに乗せる必要があるほど切迫しているのか。だからガイドさんなどとも相談しながら、適切な判断をしていく必要があります」
当然、医療器具なども必要最低限だから現場での処置というよりは、安全に下ろすというのが重要になってくるのだ。


便利な移動手段がない中
“走れる”というメリット
しばらくすると岩瀬医師がトレイルラン用パックに、ファーストエイドキットを入れて背負う。山頂まで体調を崩している登山者がいないかパトロールに行くという。普通の足だと頂上まで行くだけでも3、4時間かかるが、岩瀬医師は1時間半ほどで戻ってくるという。

「山頂直下は体調を崩したり、怪我をする人がとくに多いので、毎日1度は見回るようにしています。パトロールだけじゃなく、現場に急行しないといけないこともあるんです。どこかの山小屋で体調を崩した人が出たという連絡が来たら、往診のような形で向かいます」
そうした現場に赴くためには、やはり普段から鍛え抜かれた脚力がものを言う。小屋からすぐ上の岩場をぐいぐい登って、あっという間に見えなくなる。


救護所から少し登った場所。見上げるとさきほどから日差しが強い。富士山の五合目以降は、樹木がほとんど生えていないから日陰がほとんどないのだ。
「風雨をしのげる場所も小屋周辺に限られるので、急な大雨などが降ったら低体温症の危険も出てくる」という、先ほど聞いた岩瀬医師の注意喚起の言葉にも繋がる。
目まぐるしく動いていく雲を眺めながら待つこと1時間。砂埃を上げながら、岩瀬医師が戻ってきた。
「いま救護所に患者さんが来ているという連絡があったので、ちょっと急いで下りちゃいます」という言葉を残し、そのまま駆け下りていく。

昼夜を問わず訪れる患者たち
山岳医療に休息はない
まっすぐ歩行できなくなったという症状の患者さんの診察を終えた岩瀬医師に、最近の登山者の傾向を伺ってみた。
「海外もそうですが国内でも遠方から来る人が多いように感じます。だからどうしてもスケジュール的にタイトになりがちです。つまり、登る前にすでに疲れているから、予期せぬ怪我や体調不良に繋がっているケースが多い。できれば体をゆっくり休めてから登山に臨んで欲しいですね。あとは装備関係。比較的登りやすいとは言え、標高は日本一ですから天候が荒れれば一気に気温も下がります。しっかりとしたレインウェアや防寒具、乾きやすいインナーなど登山に適したウェアや道具の準備がとても大切です」


日が傾くと同時に、救護所を訪れる人が増えてくる。長時間の登山を終え、ふっと気が抜けた時に症状がでる人も多いようだ。症状でいうと、高山病、熱射病、捻挫などが主だという。
ただ、ごく稀に重篤な患者さんも出ることもある。
「毎年、何人かは突然亡くなってしまう方もいます。今年も僕の前に入っていた班の時に、心肺停止になった登山者もいたようです。八合目あたりでそういう重篤な症状が出てしまうと、麓の病院まで下ろすのに、どんなに急いでも2時間以上はかかってしまいます。だから最初の心肺蘇生が非常に重要になってくる厳しい環境なんです。体調管理をしっかりしてから登ってきて欲しいというのが、現場の願いです」
すでに日没を過ぎているが、発熱したという人たちが救護所の前に列を作っている。結局この日、救護所の灯りが消えることはなかった。


翌日山頂まで足を伸ばす。美しい朝日に照らされた登りの道中で振り返ると霧に包まれた山中湖。はるか遠くには駿河湾まで望める。3776mという高峰ながら、独立峰なので視界を遮るものがない。他の3000m級に登ったとしても、この抜け感は得られない。これは確かに一生に一度は見ておきたい、オンリーワンの景色だ。


帰路、まもなく五合目に着くというところで、見覚えのあるウェアのランナーが登ってくる。まさかの岩瀬医師との再会だ。背中にはなんとAED(自動体外式除細動器)を背負っている。早朝、体調を崩した登山者を下ろして、いまは八合目にもどる途中なのだという。見ていた1日半の間だけでも、富士山を軽く2往復している。山に登る者として、岩瀬医師のような人たちがいるおかげで、安全に登れていることを忘れてはいけない。頭が下がる思いで、駆け上がっていく岩瀬医師の背中を見送った。


統括部長 岩瀬史明 医師
山梨県出身。山梨県唯一の救急救命センターにて統括部長を務める。2012年に山梨県でドクターヘリが導入された当初からの中心メンバーでもあり、2012年12月の中央道・笹子トンネル崩落事故にも出動。「富士山八合目富士吉田救護所」にボランティアとして2007年から参加。それ以降、毎年救護所に詰めている。趣味はマラソン、トレイルランニングで、市民ランナーとしてはトップクラスの成績を残している。